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『ラン・ローラ・ラン』


 GOLFと言ってスポーツのゴルフを思い浮かべる人もいる。あるいは車のワーゲン・ゴルフという場合もある。
けれど、1990年の暮れも押し迫ったその当時、その界隈でGOLFと言えば湾岸戦争を意味した。 仲のよかった軍人たちが、ひとりふたりと姿を消し、その彼女たちもまた、店に顔を見せなくなる。 ぽつりと空いた席の周りを「あいつ、GOLFに行ったんだよ」という噂話が流れて消えて行く。 そんな様子を、ケイはずっとカウンターの内側から見つめていた。
「よう、ちびすけ。なにシケた顔してんだよ」 ふいに声をかけられて顔を上げる。そこには、いつも店に来てはケイをからかう常連の客が立っていた。
「なによショーン、あんたから見れば誰だってショーティよ」
当時はまだフレッシュプリンスと呼ばれていた、ウィル・スミスにどこか似ている相手に憎まれ口を返す。彼はまだ日本に来て間もないエアマンクラスの軍人だった。
「あんたまだ21になってなかったわよね。年下のくせに生意気なこと言ってると、お酒、出してあげないよ」
「そりゃないよケイ。な?これあげるからラムコーク作ってくれよぉ」
そう言うと、ショーンはジーンズのポケットから、小さなチョコレートバーを出してカウンターに置いた。 そんなふうにして彼は、よくコルゲートのはみがきや、新作のCDや、クリスタルズのホットソースなんかを持って来る。「なによこれ」とケイが訊ねると、ショーンは少しばかり得意げにあげるよ、と答えるのがいつものことだった。 そんなふうに、ケイとショーンは店の客と従業員というよりは、仲の良い姉弟のように冗談を言っては憎まれ口を叩きあい、笑って酔っ払っては週末を過ごしていた。

  まだ客も入っていないような早い時間にやって来たショーンが、ゴルフに行くと告げたのもそんな夜だった。
「ゴルフってあんた、いつ?」
「明日。朝一番の飛行機でオキナワに飛ぶ」
戦時下にある時、軍の辞令は突然に降りる。自分は新米だから行くわけがないと呑気にかまえていたショーンにも急遽オーダーが来たのだろう。その時の彼の横顔は、別人のように大人びていた。
「じゃあ俺、準備があるからさ」
店を出て行く後姿を呆然と見送るケイの胸は、ざわざわと音をたてはじめる。 本当は判っていたのだ。ショーンがベース中のPXで買っては持って来た、小さな贈り物。 それは「今日歯磨き粉を切らしちゃって」とか、「ハウスパーティのサウンドトラックが欲しいなぁ」とか、「タバスコよりもホットソースが好き」とか、どうでもいい会話の中でケイが漏らすたびに彼が買って来たものばかりだったのだ。
気づかないふりをしていた。何かが変わってしまうのが怖かった。このままずっと、こんなふうにしていられればいいと思っていた。けれど、ショーンは行ってしまう。
店を途中で抜けるわけにもいかず、ケイはいらいらとクローズの時間を待ち、明け方の閉店とともに店の電話に飛びついた。
ショーンの部屋を呼び出す。じりじりとして待つ。もう部屋を出てしまったのか、オペレーターの声が「誰もお出になりません」と無愛想に告げる。ケイは舌打ちをして電話を切ると、ベースの知り合いに片っ端から電話をかけ始めた。けれどみんな遊びに出てるのか、酔いつぶれて寝ているのか、ケイの電話に答える声はなかった。
投げるようにして電話を切ったケイは、店を出ようとしていたDJを慌てて呼び止める。
「ねえジェフ、これからベースに帰るんでしょ?一緒に連れてってよ」
すると、その人の良い中年のDJは、言いづらそうに言ったのだ。
「もしおまえにゲートを通してくれって言われても通すなって言われてるんだ。俺だけじゃない、ここらへんのたいがいのやつに言ってたよ」
おまえの顔を見たら泣くかも知れないって。勤務中に取り乱すのは嫌だからって。あいつだってオンデューティの軍人なんだ。判るだろ?
最後まで聞かずに店を飛び出した。 国道16号線をターミナルに向かって走る。 言いたかったこと。聞きたかったこと。たくさんのサンキューと、同じ数だけのソーリーが次から次へと湧き上がって来て、鼻の奥がつんとして、胸がつぶれそうになった。 けれども、息が切れて倒れそうになるのもかまわず、ケイはまっすぐに伸びた道路を北に向かって走り続けた。

  朝6時。ショーンを乗せたC130が、明るくなり始めた空を飛び立っていくのが見えた。
ケイはその飛行機が見えなくなっても、フェンスにしがみついて唇を噛みしめていた。
そして、伝えそびれた一言は永遠に伝わることなくケイの胸に封印されたのだった。

あれからもう、10年以上が経つ。その間にケイはたくさんのことを知った。そして、その頃あこがれていた「作り物のアメリカ」はなんてちゃちだったんだろうと思う。
『ラン・ローラ・ラン』の画面の中では、真っ赤な髪をなびかせたローラが走り続けていた。その髪はナイロンの毛糸のように作り物じみていて、そこにプラスティックのような思い出が重なって見える。
けれど、あんなに必死に走ったのは後にも先にもあの時だけだったと思うと、まるであの頃の自分を象徴しているようで、ケイはどこか気恥ずかしく、けれど微笑を浮かべずにはいられなかった。

2004.3.7. 水無月朋子



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