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『冷静と情熱のあいだ』

 オープニングで、ヒロインの声が聞こえた瞬間に、ああ…と思った。
この役に、日本人か、もっと日本語を流暢にしゃべれる女優をなんで選ばなかったんだ、と俺は急にイライラし始めていた。
 原作は結構楽しめた。それは2種類あって、それぞれ男性と女性の人気作家が同じタイトルの元に書いた小説だった。これ読んでみてよ、と、つきあっていた彼女がくれた。俺はちょっとした活字中毒で、いつもいつも本に飢えていた。女性版の方を先に読んだ。男性版は、彼女が読み終わってからもらうことになった。

 映画は当然のように、その彼女と見に行った。真夏の新宿は、行き交う人間のせいでさらに暑く感じた。Tシャツを一枚着ているだけだったが、二枚くらい脱いでしまいたい気分だった。
俺は映画を見に行く時はいつも、上映開始きっかり1時間前に並ぶことにしている。そうすれば大体、思い通りの座席につくことができた。
 しかしこの日は違った。映画はヒットしているようだった。そう、恋人達を呼ぶ映画は、確実に客は二人で来るのだ。すでに場内には長い列ができていた。
女を連れた男が集まった空間、というのは非常に分かりやすい。男は女に媚びる。男は女にいい所を見せようとする。だが男が考えているのは、目の前にいる女、ではなく、こういう空間にいて他人から見られている自分、である。かく言う俺も、ちょっと待ってて、とすぐさまジュースを買いに行った。ミルクティー。彼女の好みは頭に叩き込んである。
戻ってきて彼女にジュースを渡し、財布を出そうとする彼女を無視して、俺が大学生の時に作っていた映画の話を始めた。ゲリラ撮影をしていて、警備員と喧嘩になった話を、面白おかしく話した。後ろにいる、眼鏡をかけた吹けば飛びそうな大学生風の男に聞こえるように、声を大きくした。おめえはその女を守れんのか、こら。斜め前では、ホストみたいな20代後半の男が、化粧のきつい女の腰に手を回している。ああいう男がモテんのか?見てくれは派手だけど、顔はかなり貧相だな。
場内は冷房が効いているはずなのに、汗がひかなかった。

 映画館の人間によって扉が開けられた瞬間、男たちの競争が始まる。俺は、黙っていれば、怒ってる?と言われる顔をさらにしかめて席を確保した。前から三分の一、左右ど真ん中。まずまずの位置だ。俺は、後から来た彼女を自分の右側の席に座らせ、トイレに行ってきなよ、と言った。

 映画に出てくる風景は、きれいだった。どこを切り取っても、「映画」だった。イタリアの町並みは、もうそこにあるだけで絵になる。俺もいつかは、海外ロケができるかなあ、とぼんやり考えながら見た。
館内はひどい混みようで、彼女の右側も、俺の左側も埋まっていた。

 映画が始まってしばらくして、俺は左に座っている人間が携帯を手にしているのに気付いた。右手の親指がしきりに動き、暗闇に小さな液晶が浮かび上がっている。メールを打っているようだった。ああ、確かに映画はつまらんからなあ、と俺は妙に親近感を持った。友だちにつまらなさを伝えてるんだろう。
男だった。そいつの膝は、俺のよりずっと高いところにある。体は大きいようだ。俺は前を見た。

ピリピリピリ…

はっきりと、音が鳴った。左の男の携帯だった。一気に体が熱くなるのを感じた。おいおい、音を切れよ…。右の彼女をそっと見る。映画に熱中しているようだった。
ま、いっか。

ピリピリピリ…

俺は、あからさまに顔を向けた。男は下を向いて携帯を握ったまま。俺はスクリーンに目を戻した。が、映画はまったく頭に入ってこない。心臓がどくどくし始めた。
あと一回。あと一回鳴らしたら許さんぞ。俺の肩が、ゆっくりと上下に揺れ始めた。

ピリピリ

最後まで聞こえなかった。
俺は身体を固くした。
渾身の力を込め、左腕をスイングさせた。
俺はそいつの鼻っ柱に拳をたたきつけた。

 我に返ると、俺は顔の左側に猛烈なパンチをくらっていた。そいつは立ち上がって、俺に覆いかぶさるようにした、何度も何度も俺を殴りつけた。
立ち上がってはいけない、と俺は殴られながら思った。立ち上がれば取っ組み合いになる。今、後ろの席からは、スクリーンにこいつのシルエットが浮かび上がって見えるだろうな、と思った。
なぜか俺は、殴られ始めてから冷静になった。
これだけの至近距離からの攻撃では、はっきり言ってそれほど痛くはなかった。彼女が俺の方を向いて何か小さくつぶやいていて、そいつの連れもそいつに手をかけていた。
俺は左手でそいつの腕をつかんで座らせた。
「消せよ。」と、俺は低い声でにらんだ。
「なめてんのか。」とそいつは暗闇の中で妙なアクセントで言った。あ、日本人じゃない、と俺は思った。
「消せよ。」と、俺はもう一度言った。
「消してるだろ。離せよ!」俺は、そいつの腕を左手でつかんだままだった。俺は手を離してゆっくり前を向き、そいつは鼻息荒いまま前を向いた。
スクリーンでは、ヒロインが公園で楽器の演奏を聴いている。
日本人を使えよ。俺はそのヒロインをにらんだ。

 エンドクレジットが流れ始め、ばらばらと客が立ち始めた。左のやつが立ち上がった。俺は前を向いたままでいた。
来るなら、来い。スクリーンの文字をにらめつけながら、俺は身構えた。
そいつの連れがぼそぼそ言うのが聞こえた。「謝らせる?」何ぃ?俺が謝るだと?ふざけんな、おめえの国では映画館で携帯鳴らすのか。日本に来んな、ぼけ!
そいつがゆっくりとこっちを振り向く。俺は微動だにしない。
「いい…」そいつがつぶやくのが聞こえた。そして、二人は暗闇の中に、消えた。

俺は彼女の手をにぎり、そして、ほっとした。

2003.3.29. 工房の主人



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