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『レディ・ホーク』


武志の一日は朝陽とともに終わる。
午前8時。正面玄関のシャッターを開け、ビル全体のセキュリティシステムを解除する。大手電機メーカーの自社ビルの警備。それが武志の仕事だった。

だが武志が仕事を終えるよりも早く出勤してくる女性がいた。ホワイトカラーらしく、きちんとスーツを身に着けた彼女は、始業時間より一時間以上も前に姿を見せる。シャッターが閉まったままの正面玄関ではなく、武志のいる警備員室へと続く、通用口を通るために差し出された社員証には開発部・三浦有希とあった。
有希の一日はそれから始まり、武志はその直後、出勤してくるビジネスマンの流れに逆らって駅へと向かう。
昼と夜とが見事に逆転した、すれ違いの瞬間。その感じが武志の胸にひっかかった。

夜勤に就いた長い夜、武志はなかなかピースの揃わないジグソーパズルに挑むように、古い記憶を並べ替えてみた。おぼろげな外枠から、映像が姿を現し始める。
タイトルも思い出せないほど昔に観た古い映画。その暗い映像の中には、鷹と狼のシルエットがあった。
切れ切れの残像をつなぎ合わせて、胸に引っかかった小骨をつまみ出す。思い出せそうで思い出せない記憶の尻尾をつかむのは、眠れない夜に数えるひつじのようにとりとめのない作業だったけれど、そこに有希の横顔が重なった途端、小遣いを貯めて買った大きなプラモデルのような楽しみに変わった。
夜が明けるまで、まだ5時間もある。
こうなったら根比べだと、武志は記憶の断片に挑み続けた。

空がうっすらと白み始めた頃、記憶の最後のピースが揃った。映画のタイトルが浮かび上がると同時に、古い映像までもが動き出す。
その日から武志は、有希のことを心の中でイザボーと呼ぶようになった。ただその映画と違うのは、武志はまだ一度も、有希と話をしたことさえないということなのだ。

だが、有希を気にかけるようになった武志の視界には、たびたびその姿が目に留まるようになった。
武志が出勤した午後8時過ぎ、オフィスで聞かれたくない電話なのか、有希はよくロビー脇に降りて来た。盗み聞きをするわけではなかったけれど、人けのなくなったロビーではおのずとその会話は耳に入って来てしまう。
エステサロンの予約をキャンセルする電話や、友達とのやりとり。上司の悪口を言う時にはけっこう口が悪いこと。母親らしい相手に夕飯を断っているところも聞いたことがある。さらに気をつけて見ると、残業用の夜食らしいコンビニの袋の中には必ずチョコレートが入っていることも知った。

そんな小さな秘密が少しづつ武志の胸に貯まって行ったある日、自分の企画が通らなかったと、くやし涙を流しながら誰かに電話をしている有希を見かけた。
武志は「こんな時、なぐさめてくれる相手はいないのだろうか」と、ふと思った。

そして、武志はひとつの賭けをした。
―― もし今夜、自分が出勤した時に、彼女がまた残業だったら。
司教の呪いはもうやめよう…と。
有希が誰よりも早く出勤して来た、いつもと変わらない朝のことだった。

家に帰ればすぐふとんに潜り込むしかない武志だったけれど、その日は一日中、落ち着かない気持ちで過ごした。
太陽が傾き、夜になるのを待ちきれない思いで出勤したその夜。ロビーに姿を現した有希の手には財布だけが握られている。
「誕生日なのに、残業ですか?」
 通用口で社員証を差し出した有希に、初めて声をかけた。
「どうして?」
 有希が怪訝な顔を向ける。
聞きなれた有希の声。けれどそれは、初めて武志に向けられた言葉でもあった。
「社員証。生年月日も書いてあるから」
 そして武志は家宝の剣の代わりに、小さな花束とチョコレートの包みを差し出した。


2004.10.27. 水無月朋子


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