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『ブラックレイン』

 チューリッヒ空港は、知らない言葉で溢れていた。
初めて降り立つヨーロッパの地で俺が気にしていたのは、税関でも言葉でも手荷物検査でもなく、出口で待っているであろう友人のことだった。

 彼-レオ-とは旅行先で出会った。
レオはイタリア系スイス人で、お互いに英語は外国語。その国の語学学校に同時に入学し、同時に卒業した。
歳も近くすぐに仲良くなり、語学学校を卒業した後は彼の買った車で2ヶ月に渡って旅をした。
当初は4人で国を回る予定で、そのうちの一人はレオのガールフレンドだった。しかし直前に彼らは別れ、もう一人も急きょ国に帰ることになり結局彼と俺の2人になったのだ。

俺たちの目的はその国を一周することだった。
そのためには、お互いを必要としていた。
しかし不安は適中した。
学校で顔を合わせると仲良く会話する、という関係は必ずしも「いつでも仲良し」とは限らない。
文字どおり朝から晩まで一緒になった俺たちはやはり、じきに気まずくなっていった。
最初はささいなことだった。俺は一日一回は米を食べないと耐えられないと主張し、彼は同じくチーズを主張した。
結果、朝に必ずチーズを食べ、晩には米を食べることになった。

彼には国境などなく、居心地のいい国を探すために旅を続けていた。そして俺の、大学に行きながら将来のことが分からないという悩みは一切、理解できなかった。
レオに対していら立ちが膨らんでいった理由の一つに、俺が日本のことをうまく説明できないということもあった。
「印鑑よりもサインする方が本人の確認にはいい。印鑑は盗まれてしまう」
「なぜ鯨を食べる?世界中で食べてるのはほんの数カ国しかない。なぜ国際標準に従わない?」
レオは怒濤のごとく質問を浴びせかけ、そのほとんどの「なぜ」に俺は答えられなかった。

ある街で俺は「この国で唯一の列車に乗りたい」と言った。「俺は興味ない」とレオは言った。
「列車に乗れば、俺のやりたいことはすべて完結するんだ。」俺は胸を張った。
「俺はもう済んだよ。」レオも負けずに言った。
「じゃあもう、一緒に旅行する必要はないな」どちらからともなく、言った。
「そう…だな」どちらからともなく、言った。

 帰国した俺は、もとの大学生活に戻った。外国に行けばきっと何かある。人生はきっと開ける。
そんなものは嘘だと、認めたくはないが分かっていた。
また以前と同じ、空虚な生活が始まろうとしていた。俺はあせった。
俺には目的が必要だ。
郵便受けがコト、と音をたてた。レオからのポストカードだった。
レオに会いに行こう。急に思い立った。
このまま毎日を過ごすわけにはいかない。
俺はそれから猛烈にバイトをした。夕方は家庭教師そして夜間のコンビニ。
1年後、十分な渡航費が貯まった。
レオと別れてから2年が経っていた。

チューリッヒ空港の税関を抜け、俺は通路を歩き続けた。そこから出口まで近いのか遠いのか分からない。レオに出会ったらどんな顔をしよう、と思った。何と言おう。まずは気まずくなっていたことを謝るか。それとも相手から謝ってくるか。
いや、静かに微笑んで握手をすればいいのか。初めて出会った時のようにただ「Hi」と言えばいいのか。
レオがいた。
考える間もなかった。
「ヘーイ!」お互い同時に口を開き、同時に肩をくんだ。そこには、プロレスごっこをする少年2人がいた。
家に着くなり、レオは奥さんと子供を紹介してくれた。
彼はいつの間にか結婚していた。

『ブラックレイン』という映画の、俺はラストシーンが好きだ。
マイケル・ダグラスは事件を解決して国に帰ることになる。高倉健は見送りに来ている。
口数は多くない。
そしてお互いの目に、警戒心は、ない。
彼らの周りは騒がしいのに、俺は見ていてとても静かだと思った。
モノクロの印象の強い作品で、それが映画に静ひつ感を加えている。
お互い何か言いたいことが山のようにあるのだ。しかしうまく言葉が出てこない。
それでいいのだ。多く語る必要は、ない。
高倉健は最後にプレゼントを渡す。
あれは余計だ。
男の別れには何もいらない。

レオの家には、結局1ヶ月近く滞在させてもらった。
アパートの2階のベランダで、レオと昔話をした。そして昔のように議論をした。
今回は負けない。俺は日本のことをたっぷり勉強してきていた。

スイスを立つ日の朝は、なぜか家の中がよそよそしかった。レオも何も言わず、俺も黙々と荷物を片付けた。
会話は、ない。しかし部屋の中は声にならない言葉でいっぱいだ。
黙って部屋の片づけなんかしているレオの背中を見て、俺はおかしくなった。
何も言わなくていいよ、と思った。俺も何言っていいのか分かんないから。

最寄り駅まで送る、というレオを止めた。のんびり考えながら歩きたいんだ。
「じゃ…」と俺は言った。「じゃ…」とレオは言った。
ドアを閉める。

2004.1.27. 工房の主人



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