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『タイタニック』


「けっこう本格的なのね。」  
 由季子さんはソファに横になったまま言った。
俺は絵を描く準備をしていた。
両手を洗ってきた後は、丁寧に指のいっぽんいっぽんをハンカチで乾かす。指先を擦りあわせてサラサラと音がするのを確認して、つまりちゃんと乾いているかどうかを確認して、今度はゆっくりとカバンからA4のケント紙を取り出す。
右手の中指の先で―人差し指よりも感覚がするどそうな気がするから―ケント紙の両面をじっくりと撫で、そして絵を描く面を決める。

ほんとはこの一連の動作に意味があるわけでもないが、歳上の由季子さんに少しでも感心してもらいたいための俺の演技だった。
効果的にするためにも、由季子さんの方は一切見ず一心不乱に絵を描く準備に専念しているフリをした。
俺は緊張し、そして興奮し始めていた。
部屋には二人だけ。
彼女は― 俺の目の前で、身体に大きな布を巻き付けただけの状態で横たわっていた。

この空間を、これから俺が支配するのだ。

「ここでいい?こう?」  
 由季子さんはしきりに自分の位置や布の巻き具合を確認してくる。俺はその都度、離れて座ったまま指示を出した。
絶対近付いてはいけない。
まだだ。
俺が手にしたいのは‘それ’じゃない。
‘それ’を手にしても、あの男には勝てない。

部屋に時計は置かないの、と由季子さんは言った。だから時間は分からない。
午前2時くらいだろうか。
時間を聞くなんて野暮はしない。俺はとっくに、自分の腕時計をカバンにしまっている。
最初から帰る気なんかない。

俺はあぐらをかくと、右側に3本用意したBの鉛筆3本と消しゴムをちらと見てからおもむろに絵を描き始めた。
絵はまず全体のバランスからだ。
さっさっさ、と頭の位置、腰の位置を決める。
俺は息を大きく吸い込んだ。
薄く鉛筆で鼻と目の跡をつける。
位置が落ち着いたら今度は髪だ。髪をとかすように線をつけていく。やさしい線をつけていく。
頭を支える細い腕は心もとなく、くびすじにかかるほつれ毛は息をかければふわふわと揺れる。
胸の膨らみを腰の稜線を愛で、白い太ももをなでそして足の指先を包み込む。

俺は紙の上で彼女を抱いていた。
彼女はサラサラと呻き、力を入れると大きく喘いだ。

ケント紙は好きだ。画用紙は紙の表面のでこぼこで鉛筆の黒鉛が擦り切れていくのが快感だが、ケント紙は表面が滑らかだ。鉛筆はしばらく使ってもとんがったままだし、線もシャープだ。画用紙のにじんだような絵にはならない。
俺の目の前の由季子さんはリアルだ。シャープな現実だ。にじんだ夢にしてたまるか。

ジェームズ・キャメロンが監督した『タイタニック』の、主人公ジャックが船上で知り合った高貴な女性、ローズの絵を描くシーンを思い出した。
豪華な調度品に囲まれた部屋で、ジャックは無心にローズを描く。
監督自身、絵を描く人間だからだろうか。映画の中でもあのシーンは時間を割かれている。
貧乏なジャックは、自分にローズが似合わないのを分かっている。でもそれが何だって言うんだ。
彼女には結婚相手がいて、彼女の境遇にぴったりな男性がいて、でもそれが何だって言うんだ。

俺は仕送りとバイトで生活する大学生で、ただそれだけの存在で、歳上の女性に示せるものなんかない。
この女性が惹かれた、さらに歳上の男に勝てるものなんか、何もない。
だから俺はたった一つの、俺ができる唯一の武器を取り出した。
部屋の空気はぴたりと止まり、俺の体温と、由季子さんの体温だけで保たれている。
世の中にどんなことが起きていようと、この直方体の空間は―

リリリリリリ…

甲高い音が濃密な空間を切り裂き、俺は一瞬鉛筆の手を止めた。由季子さんの携帯だった。
こんな真夜中に彼女に電話をかけてくるのは一人だけだ。
由季子さんは体勢をあまりくずさないようにして、電話に出た。
一息ためて、
「…あ、もしもし…」  
 由季子さんはぼそぼそと話し始めた。
俺は由季子さんを見ずに、デッサンを続ける。
何もなかったかのように描き続ける。
俺は鉛筆を動かす。
無心に動かす。
でもそれはただシルエットの部分を何度も何度も黒く塗りつぶしているだけ。

「あー、お疲れさまー…」  
 ためらいがちな、でも必死に平静を装った由季子さんの声がぼそぼそと聞こえる。
俺はうつむいたままでただ紙の上を眺め、鉛筆をただ動かした。
「今日も仕事疲れたよお。うん…」
 耳を塞ぎたいのに、しかし体中の細胞という細胞が彼女の声を一言も聞き逃すまいとする。
「うん…うん…」
 先ほどまで躍動感溢れていた紙の上の由季子さんは、今はただの黒鉛の削りカスだった。

由季子さんのとまどった声が聞こえた。
「…え?…今は…」

俺は息を止める。

「…今…うん、ちょっとぼんやりしてた…」  
 由季子さんの声は、またさらに小さくなった。
勝った。
俺は紙の上に浮かび上がってきた由季子さんを眺めた。

明日のことは分からない。
俺たちを取り囲む環境は、大海原を進む脆い船のようなものなのかもしれない。
だとしても―

俺は彼女に聞こえないようにそっと息を吐く。
あと、
最後に黒目を描けば、
絵は完成する。

2004.10.23.
工房の主人



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