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『天使にラブソングを』


 ギャングに追われたクラブシンガーが、尼僧に変装して教会に身を隠す、というその映画を観たのは、千智(ちさと)がまだアメリカ人と話をしたこともない頃だった。あちこちにコメディがちりばめられていて楽しい映画だとは思ったけれど、歌で教会を建て直すなんて映画の中だけの話だろうと思っていた。
 
その頃の千智はゴスペルと呼ばれる黒人霊歌の持つ力を知らずにいた。それはアメリカという国を知らないのと同じだった。
その後、千智は友達の紹介でアレックスという黒人の少年と知り合い付き合うようになった。彼は東京の田舎町にある米軍基地で働く軍人だった。
そして一年あまりが経ち、彼のバケーションに付き合って一緒に彼の実家を訪ねることになった。

 アトランタの小さな家で千智を出迎えてくれたのは、74歳になるという彼のおばあちゃんと、彼の一番上の兄だというおじさん、ジョーだった。9人兄弟の末っ子だったアレックスが小さい頃に両親は離婚していて、ジョーを初めとする兄弟は彼女に育てられたということは来る前に聞いていた。
少しばかり緊張しながら手を差し出す。
「日本から来たチサトです」
けれども後が続かず、彼女は途方に暮れてしまった。
彼女の南部訛りがきつすぎてハロー以外の言葉が判らなかったのだ。
千智の手をにこにこと握りしめ、しきりに頷いている様子から歓迎してくれているのは判るのだけれど…どうしよう…と日本人特有の曖昧な笑みを浮かべてアレックスを見上げる。すると彼はこともなげに言った。
「俺たちだってたまに判らない時があるんだ、気にしなくていいよ。ジャパンがどこにあるかもどうせ判ってないし」
  40をとっくに超えているようなジョーも、黙ってうんうんと頷いている。グランマを前にして、千智は苦笑いを返すしかなかった。

 その夜は千智を歓迎してか、バーベキューをしようということになった。
キャンプのようなそれか、アレックスと一緒に行ったベースのバーベキューを想像していた千智は、そこでまた目を見張ってしまう。
近所の主婦たちがぞろぞろと集まって来て、庭に置いたグリルでリブを焼き始めたのだ。リブといっても日本で見るようなかわいらしいものではない。明らかに豚の半身、一抱えもあるようなそれを何枚も焼く。そしてすべて焼き終わるとそれを均等に分け、それぞれにお金を出し合って、何事もなかったように帰って行った。
それは「何かのお祝い」とか、「お祭りごと」などではなく、「夕飯の準備」だったのだ。
  その時、彼女たちは「メアリーが焼くリブはおいしい」と口々に言っていた。どうやらグランマは近所で評判の料理人らしかった。
その言葉通り、彼女はモツを煮たようなチットリンズやガンボ、なまずのフライ、ハムホークスと呼ばれる豚足料理など、千智がそれまで食べたことのないような料理をいくつも作ってくれた。

そんな滞在中、千智が朝起きると、よそ行きのドレスに着替えた彼女が、迎えに来た初老の男性と一緒に楽しそうに出かけて行くところだった。
昨日、風邪気味で具合が悪いって言ってたのに。どこへ行ったの?と遅れて起きてきたアレックスに訊ねると、彼はあくびをしながら言った。
「あ、デイビスが迎えに来た?彼女、教会に行ったんだよ」
  迎えに来たデイビスはホームヘルパーでも教会の人間でもなく、彼女の「ボーイフレンド」なのだという。
「年下はイヤだ、なんて言ってたのにな」
  そんなふうに、彼女との出会いは驚くことばかりだった。
そしてその後、無理をして出かけて風邪で寝込んでしまった彼女は、何日かして元気になると、開口一番「フライドチキンが食べたい」と言ったのだ。

日本ならおかゆやうどんがせいぜいなのに、フライドチキン…。
まして彼女は昔、町の養鶏場でニワトリの羽をむしる仕事をしていたのだという。
きっとその頃は、まだ奴隷解放も進んでいなかったこともあって、そんな仕事しかなかったのだろう。
なのにフライドチキン…。
タフだな、と心の底から思った。
そんな彼女たちが長い間、心のよりどころにして来たのが教会であり、ゴスペルなのだ。そこには自分には想像もつかないエネルギーが込められているんだろう。

 日本に帰ってきてからしばらくして、アレックスとは別れてしまったけれど、その後も彼のファミリーとのクリスマスカードのやりとりだけは続いた。カードはいつも「ソフィアへ」という書き出しで始まっており、ジョーの短いメッセージが添えられていた。
ソフィアというのは、「チサト」がどうしても「チシャト」になってしまうグランマのために、ジョーが「智」の字を取って付けてくれたものだ。
  そしてアトランタを訪ねた数年後にジョーから送られて来たカードにはこんな走り書きがあった。
「She Passed Away −彼女は亡くなったよ−」
  その同じ年、同じクリスマスに映画の二作目が封切られた。
もう二度と訪ねることのないアトランタを思い出しながら、千智はその映画を観た。
一作目とはまるで違って見えた。

2004.2.21. 水無月朋子

 



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