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『大逆転』 |
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期待と失望がルーレットを回している。金と欲の駆け引き。暇つぶしのお遊び。得をするか損をするか。賭けた結果はそのどちらかだ。 チップの山か、全部失くすか。簡単なルールと煙草の煙。ちゃらちゃらした喧騒の中で、黙々と指を動かすだけの人たち。 香織は、週末のどうしようもない一時間を、そうして潰す。 香織は週末になるといつものように呼び出される。 樹里亜。それが彼女の名前だった。胸を異常に強調した、その店の制服がよく似合う。スパイラルパーマにうさぎの耳。白いカフスとエナメルの靴。きっと今頃は、幼さの残る顔に不釣合いな体をそのコスチュームに押し込んで、客の気を引いていることだろう。どこから見ても決して美人と言うわけではない。そんなことはいいのだ。樹里亜は彼女の仕事に従事している。 店は雑居ビルの三階。香織は彼女の呼び出しに応じてやる。樹里亜は香織の兄貴に恋をしている。 「外で待ってて。もう少しでお店終わるから」 控え室でこっそり香織に電話をしてから、樹里亜は再び客に媚びを売る。そんなことも判っている。暇なので、その間、路地裏に見つけたバーのスロットで香織は時間を潰すのだ。 手持ちの金を全部コインにして、機械に落として行く。スロットルが回り始める。 樹里亜が兄貴とうまく行こうが行くまいが、そんなことどうでもよかった。 週末はいつも島村と会っていた。別れるまで仲が良かった。急に壊れてしまったものは、失くしたことさえ気づくのに時間がかかった。週末になると、相手の家まで行ってしまいそうになる。何もないことが信じられない。もう島村とは何もない。 だから香織には、今、ここにいる理由が必要なのだ。 香織はスロットルのレバーを強く引いた。 樹里亜は、顔に張り付けていた薄っぺらい微笑みの奥で何度もため息をついていた。足がむくんでハイヒールがきつい。樹里亜がいくら上の空でも気づかない鈍い客は、さっきから何度も同じ言葉をくり返している。何時に仕事終わるの。ねえ、家まで送っていくよ。大丈夫なんにもしないよ。 店の奥にはビリヤードとスロットル。簡単なルーレットの台が置いてある。 「ルーレットしなぁい?」 樹里亜がうんざりして話を変えても、客は乗ってこない。もっと飲もうよ、と客は言う。いくら面倒くさくても、樹里亜にとって大事な客であることには変わりない。けれどこの店はそろそろ経営が危ない。 「うん。じゃあどんどん飲もう」 樹里亜はもうすぐ十九になる。 スロットルは止まってしまった。店が停電したのだ。香織はカウンターを振り返る。真っ暗で何も見えなかった。 そろそろ樹里亜が出て来るかもしれない。店を出てしまおうか。コインもちょうど尽きる頃だ。そう考えて、香織は暗闇の中を非常口の明かりに向かって歩いた。 ポケットの携帯がやかましく鳴っている。いつものように樹里亜からだと思った。お客に引きとめられちゃって。だからもう少し待ってて。樹里亜はそんな風に何度も電話をかけてきて、その結果、いつも酔い過ぎている。 あと三十分…一時間ってとこかな。香織は携帯を見ることもなく歩き続ける。樹里亜以外に電話をかけてくるやつなんていない。 真夜中のアスファルトが、雨に濡れて黒く光っている。 停電しているのをいいことに、樹里亜の客は彼女に抱きついてきた。重苦しいことこの上ない。いつもそいつは店に来ると樹里亜を指名してくれる。趣味の悪い客だなと思った。 樹里亜だって鏡を見たことくらいある。本当にやつは趣味が悪い。 この客が来るたびに、樹里亜は内心、そいつを馬鹿にした。自分より美しい女が山ほどいることくらい、樹里亜にだって判っている。 「いいじゃん。俺と一緒になろうよ。水商売なんか辞めてさ」 打算と計算が入り混じった目で、客は一生懸命懇願している振りをする。勝ち勝負。そんなふうに思っているんだろう。 きっと理由なんかないのだ。これは運命のルーレットなんかじゃない。偶然と思いつきだけで、こいつは自分を欲しがっている。運命なんか、どこにも転がってない。 香織が別の店で小一時間を潰し、店を出たところで携帯が鳴った。 いい加減うんざりする。けれど帰る理由もなかった。家にいる理由も外へ出て来る理由も、無いことには変わりはない。でもせめて樹里亜を待つという理由くらいは自分の中に残しておきたい。これ以上悪いことが続くはずがない。…だって、今が最悪なんだから。 「…はい」 「俺」 受話器の向こうで、もう話すことはないと言って背中を向けた島村の声がした。何で全然出ないんだよ。もう新しいヤツができたのか? 物分りの悪い島村に、この状況を理解してもらうのがどれだけ困難なことか。言い訳もできずに電話を切られた香織は考える。最悪に最悪が重なった。自分の運の悪さを呪う。 無意識に突っ込んだポケットの中で、何かが手に触れた。一枚残ったさっきのコインだった。巡り巡って一ドルを奪い合うハリウッドのコメディ。そんなバカバカしさを感じた。まして今の自分は一ドルの価値さえない。コインを投げたら終わり。そんな薄っぺらい賭けだった。 やってられるか。とりあえず、つぶやいてみる。それから、今どこにいるのかも判らない島村を探すために、香織は走り出した。息を切らして。 2003.4.8. 水無月朋子 |
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