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『スモーク』

 僕を禁煙させるにはよほど優秀なカウンセラーが必要になるだろう。
僕は胸ポケットから煙草を取り出すと立ち止まり火を付けた。立ち上る煙と一緒に僕の心の中にあったわだかまりが空へ舞い上がっていくような感覚がした。

ごった返す町の中でぼんやりと煙草に火を付け、そこを行き交う人々を静かに煙を吐きながら眺める時。その瞬間がすごく贅沢なものになり、雑踏の中で自分だけが別の空間に切り離されたようなそんな錯覚に陥る。そこにはただ肉体的欲求の解放ではなく同時に精神的な解放をも感じる。

そんなときにいつも思い出すのが「Smoke」と言う映画。ブルックリンの街角に立つオーギーのタバコ屋は、男や女、白人や黒人、ヒスパニック、アジア人etc...多種多様の人々が、煙草を買う際にほんの数分間無駄話をしていく、そんな中で生まれる人間ドラマの中に時に煙草というものはただ肉体的欲求を満たすだけではなく、それを媒介に目に見えない精神的な部分に大きな役割を果たしてるような気がしてくる。

実際に僕がアジアを旅していたときにわざとライター持たずに町に出ることがよくある。煙草を吸うときにわざと隣の人に火をもらうためだ。「ちょっと火をくれ」「いいとも」「お前はどこからきた?」なんて会話から始める出会いもあるから・・・・

中国の思想家林語堂は言った。

喫煙家が禁煙家にかける迷惑は肉体的なものであるが、禁煙家が喫煙家にかける迷惑は精神的なものである。

人が煙草を吸う時そこには様々な理由がある。
理由と言っても、ただかっこいいというだけかもしれない・・・自分を落ち着かせる為かも知れない・・・会話の間を埋めるために・・・仕事の合間の休息に・・・はては別れた彼氏の匂いが忘れられないからなんて話も聞いたことがある。
煙草をやめられないと言う人の多くに一度覚えた肉体的欲求に逆らえないという根底の中に各人の持つ精神的な抵抗があるような気がしてならない。

最近では駅構内終日禁煙なんてアナウンスが流れ、歩き煙草禁止条例なんてものまででき喫煙者の肩身がだんだんと狭くなってきている中で世の中の合理化によって失われてしまった我が国のゆとりなんてことにまで僕の思考は拡大していく。わびさび文化をもつ我が国の国民性に煙草というものはもの凄く相性がいいものではないだろうか。無駄に時間を費やすことにある美徳の骨頂とでもいうべきか。

そんな壮大な自己肯定の正当化とも呼べる白昼夢は立ち上る煙の終わりとともに現実に引き戻される。ポケットから携帯灰皿をだし赤く静かに燃える火の玉をもみ消すと、周りの音や匂い、別世界で流れていた時間が一気に流れ込み、現実が正気を取り戻す。

立ち上る煙草の煙のように形もなく消えて行く一瞬の現実のなかにある大切なもの、それこそが人生の価値というオーギの声が耳に残る。

何度も通い慣れたこの道を僕は足早に・・そして軽快に歩き始めた。
もう幾度となく繰り返されてきた禁煙カウンセリングへ向かうために。

2003.5.6. 吉岡量



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