ホーム映画にまつわるものがたり『さ〜そ』 >『シークレット・ウィンドウ』

『シークレット・ウィンドウ』

この部屋には窓がない。
扉には外から鍵がかかっているし、その扉を開けることができる田崎は、夕食を運んで来て以来、長いこと姿を見せていない。
ここへ来てからもう何日くらい経ったんだろう。朝か夜かも判らない空間で、カオルはぼんやりと思った。

カオルは以前、小さな病院で薬剤師をしていた。田崎と初めて会ったのもその病院だった。当時、病院ではネットワークの強化が進められており、田崎はそのためのSEとして派遣されて来たのだ。
田崎は古参のカオルにあれこれと話しかけ、カオルは珍しく顔を赤らめた。田崎と自分の家が近いことを知ったのもその時だった。
田崎はシステム構築の作業を続けている間、どこか不審な行動を取っていた。病院の端末から取り出したCDを自分の鞄に滑り込ませたのだ。同じ部屋にいたのはカオルだけ。あの時、田崎は何をしたかったのだろう。もしかしたら院内のデータを持ち出したのかも知れないし、それはカオルの気のせいだったかも知れない。だがそれももう、どうでもいいことなのだ。病院に損失があろうと、あんな病院などどうなったってかまわない。それどころか、あの些細な出来事がこの場所へと続く鍵だったと思えば、カオルは田崎を責めることなどできなかった。

なぜなら、以前のカオルは時間に縛られなければ生活できない女だったから。昔から時間にはきちんとしている方だったと思う。待ち合わせの時間に遅れたこともないし、学生時代も遅刻は皆無だった。だがそれが、拠り所のない都会の生活でエスカレートした。
最初は、目覚ましが鳴る5分前に眼が覚めてしまうことだった。けれど6:00にセットした時計が鳴るまで起き上がることができず、時間が経つのを息を潜めて待った。やがて顔を洗う時も、歯を磨くのも、朝食の用意をする間中も、常に時計の針を気にするようになった。卵は必ず2つ。タイマーで計って目玉焼きにする。トーストもきっかり3分。ヨーグルトもきっちり200gを計り、コーヒーは決まったブランドしか飲まない。朝食を食べ始めるのは6:30ジャスト。テレビに映し出された時刻を確認してからでないと落ち着かない。
たとえ身支度をしている間にくずかごを蹴飛ばしてゴミが散らかっても、時計が7:20になれば部屋を出る。
毎朝同じ電車に乗り、タイムカードには同じ数字が並ぶ。夕方は同じ時刻に病院を出て、同じ道を通って帰る。そのルールを破ってしまったら、今度は選ぶことに苦しめられそうで恐かった。

だが田崎の不祥事を目撃した夕方、カオルは田崎の動向が気になって家を訪ねていた。それは他人から見ればボタンをひとつ掛け違えたくらいの、ほんの些細な出来事かもしれない。けれどカオルにとっての寄り道は、自分の世界を変えてしまうほどの事件だったのだ。事実、その時からカオルの世界は変わったのだけれど。

その夜、玄関に出て来た田崎はカオルを家に招き入れ、話をはぐらかしながらあれこれともてなした。やがてカオルは眠り込んでしまい…目覚めた時にはここにいた。見渡した部屋にベッド以外のものはなく、時間が判らないことがカオルの不安を募らせた。それどころか、ここにはお気に入りのコーヒーも、きちんと焼けたトーストもないのだ。カオルは半狂乱になった。だが食事を運んで来た田崎は言った。
「時間が判らなくて不安なら、ぼくがここに来た時を朝だと思えばいい。それまでのルールが失くなったというなら、これからはぼくを新しいルールにすればいい」

その言葉通り、今では田崎がカオルの生活のすべてであり、時間に縛られるかわりに田崎に縛られていると思う。けれどカオルは以前の生活と今と、どちらが幸せかと訊ねられたら、きっと今の方が幸せだと答えるだろう。
外には悲しいことばっかり。いつも何かに迷わされ、膨大な情報の中からひとつを選ばなくてはならず、選んだ途端にこれでよかったのかと迷わなくてはならない。だけどここには自分だけの絶対がある。
この部屋を出たところで何が変わるというのだろう。外にいるというだけで、自由などどこにもなかった以前の生活と。若いナースたちに「お局」と陰口を叩かれ、更衣室で交わされる合コンの相談にも誘われることなどない、あの惨めな毎日と。
「彼に何て言い訳しよう?」
「急に夜勤になったってメール送っておけば?私と一緒だって、2人の写真送っておけば平気だよ」
楽しそうに話す彼女たちを横目に、カオルは毎日病院を出るしかなかったのだ。そしてカオルには、その毎日から逃げ出す自由さえありはしなかった。

それなのに。扉を開けてやって来た田崎はカオルに向かって残酷な一言を告げた。
「しばらくここには戻れなくなる。だからあなたを自由にするよ。ここを出て、また元の生活に戻ればいい」
「今さらここを出て暮らすなんてできない。私にはもうルールがない」
泣きながら訴えたカオルに、田崎は自分の携帯を握らせて言った。
「じゃあこれが、これからのルール」
そして田崎は姿を消した。  

 外界に出たカオルは、自分がいなくなったことが失踪事件として捜査されていたことを知った。だが警察で事情を聞かれた時も「拉致や誘拐などではない。自分は守られて生活していた」と、田崎との生活を懐かしみながらうつろな眼で答えるしかなかった。

 そして今。カオルの部屋で、かつて時計があった場所には田崎の携帯が置かれている。朝になれば田崎からのメッセージが届く。卵やトーストを焼く時間。食事を始める時間。出勤する時間。昼休みや退社の時間、電車に乗る時間もすべて田崎からのメールで伝えられる。この小さな窓を通じて、自分は田崎とつながっている。彼はこの窓の向こうから私を見ていてくれる。そう思うと、何も恐くないと思った。  

 カオルは、そのメッセージが田崎のパソコンから自動的に送られてくるものであることを知らない。そして今日も、カオルの世界の小さな出入り口に向かって、無人のパソコンがメッセージを送り続ける。

2005.1.28. 水無月朋子



映画工房カルフのように 【http://www.karufu.org/】
All rights reserved ©2001.5.5 Shuichi Orikawa
as_karufu@hotmail.com

ホーム映画にまつわるものがたり『さ〜そ』 >『シークレット・ウィンドウ』