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『シークレット・ウィンドウ』 |
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この部屋には窓がない。 カオルは以前、小さな病院で薬剤師をしていた。田崎と初めて会ったのもその病院だった。当時、病院ではネットワークの強化が進められており、田崎はそのためのSEとして派遣されて来たのだ。
なぜなら、以前のカオルは時間に縛られなければ生活できない女だったから。昔から時間にはきちんとしている方だったと思う。待ち合わせの時間に遅れたこともないし、学生時代も遅刻は皆無だった。だがそれが、拠り所のない都会の生活でエスカレートした。 だが田崎の不祥事を目撃した夕方、カオルは田崎の動向が気になって家を訪ねていた。それは他人から見ればボタンをひとつ掛け違えたくらいの、ほんの些細な出来事かもしれない。けれどカオルにとっての寄り道は、自分の世界を変えてしまうほどの事件だったのだ。事実、その時からカオルの世界は変わったのだけれど。 その夜、玄関に出て来た田崎はカオルを家に招き入れ、話をはぐらかしながらあれこれともてなした。やがてカオルは眠り込んでしまい…目覚めた時にはここにいた。見渡した部屋にベッド以外のものはなく、時間が判らないことがカオルの不安を募らせた。それどころか、ここにはお気に入りのコーヒーも、きちんと焼けたトーストもないのだ。カオルは半狂乱になった。だが食事を運んで来た田崎は言った。
その言葉通り、今では田崎がカオルの生活のすべてであり、時間に縛られるかわりに田崎に縛られていると思う。けれどカオルは以前の生活と今と、どちらが幸せかと訊ねられたら、きっと今の方が幸せだと答えるだろう。
それなのに。扉を開けてやって来た田崎はカオルに向かって残酷な一言を告げた。 外界に出たカオルは、自分がいなくなったことが失踪事件として捜査されていたことを知った。だが警察で事情を聞かれた時も「拉致や誘拐などではない。自分は守られて生活していた」と、田崎との生活を懐かしみながらうつろな眼で答えるしかなかった。 そして今。カオルの部屋で、かつて時計があった場所には田崎の携帯が置かれている。朝になれば田崎からのメッセージが届く。卵やトーストを焼く時間。食事を始める時間。出勤する時間。昼休みや退社の時間、電車に乗る時間もすべて田崎からのメールで伝えられる。この小さな窓を通じて、自分は田崎とつながっている。彼はこの窓の向こうから私を見ていてくれる。そう思うと、何も恐くないと思った。 カオルは、そのメッセージが田崎のパソコンから自動的に送られてくるものであることを知らない。そして今日も、カオルの世界の小さな出入り口に向かって、無人のパソコンがメッセージを送り続ける。
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