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『セイント』

「絶対マッちゃん、これ好きだから。」
美奈子さんが薦めてくれた映画は、『セイント』というものだった。
茂はマッちゃんと呼ばれていた。名字が松本だからだ。
「マッちゃん、スパイとか好きだもんね。」
絶対見よう、早く見よう、と茂は思った。早く美奈子さんに感想を言うんだ。茂の中で、もう感想は決まっていた。面白かった!だ。
「主人公がスパイでね、どんどん変装するの。」
ああ俺はこの人を好きになってるな、茂はぼんやり美奈子さんを見ながら考えた。

 茂の唯一の楽しみは、映画を見ることだった。一日に、多い日で3本見ていた。レンタル屋とアパートを行き来する日々の中に、大学が加わる日は少なかった。
時間はたっぷりあった。しかしそれは、時間があるから何をすればいいのかを考えないといけない、ということだった。

 茂はいつもイライラしていた。道ばたで昔はよくいろんな勧誘を受けていたものだ。でも今は誰も声をかけてこない。それだけ、しかめっ面をして歩いていた。
茂はよく一人で小旅行に出かけた。もっぱら自転車が多かった。茂の住む家の近くに、多摩川という大きな河が流れていた。この河に沿ってサイクリングロードがある。茂はよくここを走った。どんどん走って、河口の羽田空港まで行ったことも2回ある。
茂は塾講師のアルバイトをしていた。自給は1200円だったが、一日2時間、週1回の小学生相手では、ほとんどお金は貯まらなかった。
机の引き出しを開けた。2万円があった。
1日1万円。それで行けるとこまで行こう、と決めた。
高校生の頃使っていた地図帳を取り出し、いつものように関東地方のページを広げる。自分の住んでいる場所を中心に、今まで行った所を考えた。東は銚子まで行った。西は高雄山まで行った。南は小田原まで行った。 北に行こう。
どこがいいだろう、と茂は少し考えた。なんとか、無理矢理ワクワクしてくるのを待った。自分の心は、なかなかに頑固だった。
日本海を見てやろう。ふと思った。まだ見たことないじゃないか。茂の心が少しだけ、反応した。
大学にはあまり行っていなかったが、それでも授業のない土日を選ぶことにした。

 能登半島に向かうちょうど1週間前に、茂は美奈子さんと知り合った。
二人とも映画が大好きで、話は尽きなかった。美奈子さんは旅行会社に勤めていて、茂は、能登半島に行くんです、と話した。外国旅行専門だからあんまり国内には行ったことないの、と美奈子さんは言った。だからそういうとこ、すごい興味ある。
 美奈子さんはドイツに留学していて、帰ってきてまだ1年しか経っていなかった。それを聞いた時、ああ、彼氏はまだいないかもしれないぞ、と茂は思った。民話を勉強していた、という美奈子さんの外国話はかなり面白かった。茂もよくしゃべった。
日本に帰ってきて一番びっくりしたことは?と聞いたら、女子高生がみんな同じ格好をしてること、と美奈子さんは答えた。みんな足がガンダムみたい、という意見に、茂は大笑いした。

 話が盛り上がるほど、茂は目の前の女性にひかれていった。
なんだよなんだよ、と茂は心の中で毒づいた。なんで能登半島なんか行くことにしちゃったんだよ。
「帰って来たら、絶対話聞かせてよ。」
もちろん、と返事をしながら、これでもう今週いっぱいは会えないじゃないかよ、と思った。
でも、美奈子さんの「絶対」という言葉がうれしかった。
茂はその日、美奈子さんの住所を聞いて別れた。旅先の、どこかの街から手紙出すから、を口実にした。

 旅行に出る時はいつも、前もってCDをいっぱい借りてきてテープに編集し、それを携帯する。嫌と言うほど聞いて、その曲の中に思い出を封じ込めてしまうのだ。ちっともいい思い出じゃないのに、でもなぜか茂はムキになって、ひとつひとつの旅を記録に残そうとした。感情は記録できる。帰ったら美奈子さんに教えなきゃ、と茂は考えた。
電車はよく分からない町を走っていた。どこでもいいや。適当に北方面に向かう鈍行を見つけ、それに飛び乗る。効率的な行き方とか、そんなものは茂は気にしなかった。駅に着くと、今度はまた北方面に向かう電車を探した。
以前の旅で、どこにも行かない終着駅に降り立ってしまったことがあった。数駅手前の駅で乗り換えなきゃいけなかったんだよ、と駅員さんが教えてくれた。
どこへ行きたいの?
茂は返事に困った。あいまいに答えて、茂は反対方向の電車に向かった。

 旅先では誰も茂を知らない。これが、茂が旅に出たい大きな理由だった。茂は旅先で、その時々にあった役を演じた。地元のおじいさんに話しかけられれば東京から来た好青年を演じ、同じようにバスを待つ若者には兄貴ぶって声をかけた。
次々に姿を変える『セイント』は、俺みたいな男だろうか、とふと茂は思った。

山梨は、雨が降っていた。茂は野宿が好きだった。
自分がどうしようもなくみじめな気分になるから、茂は野宿が好きだった。
地上から25センチくらいの高さで夜の人々を眺めていた茂は、
何か、
どうしようもなく気が急いて、
近くのコンビニを探した。
ボールペンと小さなノートを買って来た。
行き交う人々と、ポツポツと明かりの灯る町並みを、茂は描いた。
音楽にじゃなく、紙の上にも俺の感情は記録できるだろうか、と考えた。
こんな絵を送ったら、美奈子さんはびっくりするだろうか、と考えた。
茂の右手は止まらなかった。

2003.4.13. 工房の主人



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