ホーム映画にまつわるものがたり『か〜こ』 >『グラン・ブルー』
 

『グラン・ブルー』


グラン・ブルーを観て水族館に行きたいだなんて言い出す直人も、相当単純だと思う。
「だってさ、かわいいじゃん、イルカ」
 人の良さ丸出しの笑顔で言った直人に、郁美は口を尖らせていた。
「嫌いだよイルカなんて。頭がいいとか、かわいいとか、みんなにちやほやされてさ。私はシャチの方が好きだな」
 そんなふうに強がってみたくせに、郁美はイルカを一目見るなりかわいいと思ってしまったのだ。
きれいな流線型の体。すべすべの体面。抱きしめたらきっと温かいんだろう。
都内の小さな水族館。プールとも呼べないような狭い水槽の中で、3頭のイルカの親子は懸命にジャンプをくり返していた。
「もっと優遇されてもいいはずなのに、こいつら『六畳一間・風呂なしトイレ共同でもがんばってます!』って感じじゃない?」
 ガラスにへばりついたまま、しきりに頷いている直人に、郁美はぽつりと言った。
「…いたんだよねぇ、そういう子」
 そして郁美は話しはじめた。

 郁美が高校二年の時、同じクラスに椎名という男子生徒がいた。みんなに優しくて、誰からも好かれていた椎名。卑屈なところがなくて、礼儀正しく、成績もいい。クラス委員の見本のような、優等生を絵に書いて額に入れたような生徒が椎名だった。クラスのみんなが、教師たちが、父兄たちまでもが「椎名くん」を好きだった。
どうしてみんな椎名が好きなんだろう。
郁美は椎名を見るたびにそう思った。椎名は望むものすべてを持っているような気がしたし、自分とは違うと思わずにいられなかった。どうせ椎名みたいにはなれないし。イルカは、そんな椎名を思い出させるのだ。
正直なところ、郁美は椎名が苦手だった。昇降口でばったり会ってしまった時など、わざと目が合わないように顔を背けた。
その頃、郁美は親の離婚問題の真っ只中にいて、ろくに勉強もせず、遅刻と早退をくり返してばかりだった。そんな自分を、椎名みたいな生徒はどうせバカにしていると、信じて疑っていなかった。

そんな二学期のテスト前、教室に辞書を忘れた。コンサイスの英和辞典。机の中に入れていたはずなのに、鞄に入っていなかった。下校途中に気づいた。でも家はもう、すぐそこだ。今から学校まで戻ったら、帰って来る頃には真っ暗になってしまう。それを考えると引き返す気が薄れた。ただでさえ英語は赤点ぎりぎり。辞書がなかったら明日のテストは目も当てられない結果になるだろう…。
−もう、いいや。
郁美が諦めて歩き出したとき、後ろから誰かが走って来る足音した。…と思ったら、ぽんと肩を叩かれた。ふり向くと、目の前に椎名が立っていた。
「な…何よ」
 目が合った気まずさにうろたえた。喉がからからになって、強がった声がかすれていた。
これ。椎名は郁美の辞書を差し出した。
「LL教室に忘れてたよ。明日は英語のテストだし、ないと困るんじゃないかなと思って」
「別にそんなのいらないよ。どうせ勉強なんかしないもん」
「嘘。中にマーカーいっぱい引いてあったよ。本当は勉強が嫌いなわけじゃないんでしょ?ちゃんと学校来ればいいのに」
 じゃあぼく帰るから。優等生らしい生真面目さで言って、椎名は走って行った。
去り際に椎名が残した言葉が耳に残った。
「うち、母さんいなくてさ。これから帰って夕飯作らなきゃ」
 卑屈な自分が恥ずかしかった。親の問題に駄々をこねて、子供っぽくひがんでいたことが情けなかった。
そんな自分にも、椎名は変わらない優しさを見せた。それがなおさら悲しくて、郁美は小さくなって行く椎名の背中を見つめていた。見上げた空は泣きたいくらいの夕焼けだった。

「その時のさ、ものすごい恥ずかしい感じを思い出しちゃうから、イルカは嫌いって思うようにしてたんだよね」
 郁美は言いづらそうに白状した。
「負け惜しみするってことは、昔とあんまり変わってないってことじゃない?」
 痛いところを突かれて、郁美はそんなことないと言い返した。
「じゃあ帰りにイルカグッズ買う?」
 屈託のない様子で直人が言う。直人には卑屈な陰は見当たらなくて、頭のデキは違っても、そんなところが椎名と似ていると思う。だからこそ、郁美はいつだって直人に負けてしまうのだ。
そして結局は、こんなの恥ずかしいと抵抗したものの、館内の売店でイルカのストラップを買う羽目になった。

水族館を出ると、すっかり夕方だった。
帰り道に見上げた空には、秋の初めの夕焼けが広がっていて、それは、いつか見た下校途中の夕焼けの色にとてもよく似ていた。

2004.8.16. 水無月朋子


映画工房カルフのように 【http://www.karufu.org/】
All rights reserved ©2001.5.5 Shuichi Orikawa
as_karufu@hotmail.com

ホーム映画にまつわるものがたり『か〜こ』 >『グラン・ブルー』