ホーム映画にまつわるものがたり『か〜こ』『コラテラル』
 

『コラテラル』


ロサンゼルスは不思議な街だ。世界でも有数の大都会のくせに、どこかのんびりしていて緊張感を欠いている。それがタルカムパウダーのように乾いた空気と、街のそこここに生えている椰子の樹のせいであると冴子が気づいたのは、空港のアライバルロビーを抜けた時だった。乗り継ぎでは何度も来たことがある街。けれど空港の外に降り立つのは初めてのことだ。

タクシー乗り場には眼もくれず、冴子は空港の前で迎えの車を待っていた。だが約束の時間を過ぎても、それらしい車はやって来ない。相手のオフィスに電話を入れると、電話に出た秘書は気取った声で言った。
「打ち合わせが立て込んでおりまして。申し訳ありませんがこちらまでいらしていただけますか?」
 明らかに相手の失態である。交渉が有利になったと思いながらも、冴子は思案に暮れていた。

冴子は昨日まで蟹の買い付けのために東海岸にいた。生きたボストンクラブ。それがクライアントからのオーダーだった。もちろん全量というわけではない。出荷量のうち3%の保証が条件だった。だが天候による海の状態やコンテナ内の温度で生存率は激しく左右する。カートンバッグの中に酸素をいっぱいに詰めても、ライブで持って行けるのは出荷量の5%くらいだろうと漁協の担当者は言い、それならば、と入港時の生存率が5%を割り込んだ場合の大幅な割引きを約束させた。

ロスでは冷凍野菜の出荷状況を確認することになっている。カリフォルニアの郊外に大規模な工場があるのだ。そして明日は北上してシアトルへ。ファミリーレストラン用の建築資材の選定と価格交渉に入る。年間30店舗を展開する案件だ。うまくやる自信はあった。フリーランスの敏腕バイヤー。それが冴子に与えられた称号だった。
日本人特有の柔らかい物腰と、欧米人とのやりとりでいつの間にか身に付いてしまった押しの強さをうまく使いこなして、冴子はいくつもの契約をまとめあげて来た。今では、冴子という本名よりもSACOという仕事用の愛称の方が馴染んでしまっていると思う。その無形の勲章と多額のギャランティと引き換えに、冴子は自分のベッドで眠る自由を失った。日本に帰国しても出張は続くし、2週間に渡るアメリカ滞在の前もほとんど家には帰っていない。

できることならキャブは使いたくなかった。けれど国際免許は持って来ていない。それどころか失効したままの免許を書き換える時間すらなかったのだから。
レンタカーを借りることもできず、冴子は仕方なく黄色い車の波へと足を向ける。パーキングには客を待つイエローキャブが延々と列を作っていた。ドライバーの中にはじろりと上目遣いに冴子を睨む人もいれば、まるで興味のない顔でそっぽを向いている人もいる。白人。黒人。東洋系。ヒスパニック。運転席から覗く顔の色はさまざまだ。だが共通していえるのは、誰しも裕福ではないということ。冴子は自分のテーラーメイドのスーツを見見おろしながら思った。このスーツ一着で、この男たちの家族は何週間生活できるのだろう。ここは20ドル欲しさで人が死ぬ国なのだ。用心しなくては。

その時、冴子の真隣に停まっていたキャブの運転手に眼が留まった。白髪混じりの頭をした黒人だった。手作りのランチなのだろうか、彼は窓を開けた車の中で粗末なサンドイッチをほおばっていた。バーガーキングのバリューセットが1ドル99セント。だが1ドルも出せばフルサイズのローフブレッドが買える。この年齢になるまで働き続け、けれど一日2ドルのランチ代の代りに、粗末なサンドイッチを食べる生活など、冴子には想像もつかない。
男は短い昼食を済ませるとサン・シェードを降ろした。男の顔に微笑が浮かぶ。その裏には家族の写真が挟み込んであった。黒人の女性と二人の青年。あの女性が毎日サンドイッチを作って持たせるのだろうか。小さくてささやかだけれども、温かく幸せな家庭。それは決して不幸なことではない。そして男の横顔には、その様子がありありと浮かんでいた。シェードをつまんで降ろす男の、皺だらけの手を見たとたん冴子は泣きたいような思いに駆られた。
冴子の父親は田舎で農業をしている。季節が変わっても手の荒れは治ることがなく、母親もまた同じ手をしていたと思う。母親の作ってくれるおにぎりが食べたいとふいに思った。ノスタルジーはいつだって食べ物の記憶に直結している。

世界中を飛び回る生活の中で、故郷や家族など思い出すこともなかった。それどころか、自分が日本人であることすらも忘れかけていたのだ。そんな矢先、ふいに襲ってきた感情だった。その瞬間、キャブのパーキングスポットで呆然と立ち尽くしていたのは、間違いなく小原冴子という日本人だった。
―――この車にしよう。
自分の生活はこの先も当分変わらないだろう。日本に帰っても、両親に会いに行く時間など到底取れそうもない。けれど今は少しだけ、この運転手と家族の話をしてみたかった。こんな些細なことからも、人は何かを選ぶ。小さな選択肢を重ねた先が、幸運へと続くのか、不幸に飲み込まれて行くかなど気づくことなく。
そして冴子は一歩を踏み出し、開かれた窓に向かって微笑みながら声をかけた。

2005.1.28. 水無月朋子



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