ホーム映画にまつわるものがたり『か〜こ』 >『限りなく透明に近いブルー』
 

『限りなく透明に近いブルー』


「まだ帰りたくないなぁ…」
店を出た道路で、ふいに誰かが言った。学校の近くにある安い居酒屋で朝まで飲んで、もう閉店ですと追い出された時だった。
夏の朝の空気はひんやりと透明で、街はまだ、太陽が昇る前の静寂の中にいた。
そうだよな、帰るのもったいないよな。どこからともなく声が上がって、成美を含めた10人ばかりの足は、なんとなく近くの公園へと向かっていた。

成美は、この春から声優養成所に通っている。中堅のアニメプロダクションが主催する社会人向けのコース。
人気のキャラクターを演りたいという、見るからにアニメ好きな女の子。
元は俳優を目指してたんだけど、そっちには限界を感じちゃってさ、という役者上がりの青年。
洋画の吹き替えをやるのが夢だったんだよ、という定年後のおじさん。
大学がつまらなくてなんとなく…という学生。
有名になってみんなを見返してやりたい、という元OL。
理由は違っても、同じ夢を持って集まった仲間だった。最初はお互いに様子を伺い合っていた同期のメンバーたちも、一言、言葉を交わした後は打ち解けるのは早かった。
そして数ヶ月経つ今では、週に一度のレッスンの後、決まって飲みに出かけるようになっている。
「大体さ、今のアニメってくだらないのが多すぎるよね」
「洋画の吹き替えもなぁ…あの、もって回った喋り方はどうにかならないもんかねぇ」
「私はゴールデンタイムの番組をやれれば、くだらないのでもいいな」
「そうかぁ!?」
 互いにライバルであることは判っている。それでもなお、お酒が入るととたんにそれぞれの口から熱い思いがほとばしり出た。
そんな中で、成美はいつもあまり喋らず、隅で小さくなっていた。

成美が声優を目指したのはその声のせいだった。子供の時から変わらない、妙に甲高くて裏返った自分の声が嫌いだった。
そのせいで、小さい頃から男子からは変な声だとからかわれ、女子からは「かわい子ぶってる」といじめられた。
だから中学と高校はブラスバンド部に入ってクラリネットを吹いた。口が塞がっていれば喋らなくて済む。声の代わりに音を出していればいい。そう思って一生懸命練習した。そんな成美はみるみるうちに上達し、初めて人に褒められたのもその頃だった。嬉しかった。
――このままずっとクラリネットを吹いていられればいい。
そう思っていた高校の夏休み、自転車に乗っていた成美は交通事故に遭った。他のどこにも怪我はしなかったのに、左手だけが思うように動かなくなった。地面に手を着いた時に左手首の腱を切ったのだ。
悔しくて、悲しくて、何日も泣いた。指が動かないのならいっそ腕ごと切り落としてしまいたいとさえ思った。
やっと見つけた自分の居場所を取り上げられた成美は、失意のうちに大学へ進んだ。何もかもがどうでもよかった。

人形劇のサークルに誘われたのはそんな時だった。半信半疑で顔を出すようになった成美には次々と役が振られた。ボランティアで回った保育園や幼稚園でも、成美の動かすキャラクターはかわいいと評判になった。そして成美は初めて自分の「声」に価値があることを知ったのだ。
『もしかしたら自分にも何かできるかも知れない…』
そう思った成美は、こっそりこの養成所に通い始めたのだった。

「何かこれってさ、『限りなく透明に近いブルー』みたいな感じだよな」
 元役者の青年が言って、誰かがそんな感じ、と同意した。
「朝方にさ、裸足でまっすぐな16号線を歩くんだよ、確か」
 そして誰からともなく靴を脱いでぺたぺたと歩き出した。成美はその映画を見たことはなかったけれど、なんとなく楽しそうで真似をしてみた。足の裏にあたるアスファルトが気持ちよかった。小さな夢があって、仲間がいることが嬉しかった。それで十分幸せだった。

けれど、それから半年もしないうちに成美を取り巻く環境はすっかり変わってしまった。
成美にプロデューサーから声がかかったのだ。声に特徴があるというのもさることながら、腹式呼吸や感情表現がしっかりできている、というのがその理由だった。
ずっとクラリネットを吹いてきたのだ。腹式呼吸ができることや、音に感情を乗せることは成美にとっては当たり前のことだった。けれど、それを知らない周りからは容赦ない陰口が飛んだ。
「あの声だもん。得だよね」
「コネがあったんじゃないか?元々人形劇かなんかやってたんだって?」
「プロデューサーと何かあったんじゃない?」
 そんな噂が聞こえてくる中、成美は一人黙々とレッスンを続けた。これしかなかった。陰口くらいで逃げるわけにはいかなかったのだ。

そして一年後。成美はいつか歩いた道を一人で歩いていた。
明け方まで収録が続いた朝だった。一緒にいたはずの仲間たちはいつの間にかいなくなっていた。
能力の限界を感じたから。親に反対されたから。食べていけないから定職につくからと言った人も、彼女に子供ができたと言って辞めた人もいた。
夏の朝の道を成美は一人で歩き続けた。
見たことのない国道16号線。まっすぐに延びているアスファルトの道。その遥か彼方に浮かんでいる自分の未来までがぼんやりと見えた気がした。

2004.7.1. 水無月朋子


読者の感想:

  • 中学生の頃、村上龍が好きだった。
    「すべての男は消耗品である。」という本を知るまでは。
    vol.1とvol.2で バブルにまみれたオヤジじゃんと、冷めた。
    私の生まれた年に出版された小説と、その3年後の映画で 彼が監督している事を知り、もう一度興味が湧いてきた。
    うちの側にも国道16号線が走ってるよと言ったら びっくりしてた立川の子、今頃どうしてるかな。
    駅前の本屋で店番してる、 アニメ声の女の子の事も思い出した。
    (タチバナ/20代男性)


映画工房カルフのように 【http://www.karufu.org/】
All rights reserved ©2001.5.5 Shuichi Orikawa
as_karufu@hotmail.com

ホーム映画にまつわるものがたり『か〜こ』 >『限りなく透明に近いブルー』