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『いちばん美しい夏』

 大輔の帰りが遅い日の夕方、瑤子は庭にデッキチェアを出して、カンパリ・ソーダを飲みながら風にあたっていた。
夫の帰りを待ちながら1杯か2杯、薄いカクテルを飲むことと、近くのビデオショップで借りた映画を観ることが最近の瑤子の習慣になっていた。 日中は強く照りつけていた日差しも涼やかな風へと代わり、植えたばかりの草木を揺らして通り過ぎて行く。
その風の匂いに、夏の気配を強く感じた。
大輔と結婚してから住んでいた社宅を出て4ヶ月。引越し後の慌しさも薄れ、生活は落ち着きを取り戻しつつある。
通勤時間が一時間半近くかかってしまうのが難といえば難だけれど、そのうち子供もできることだし、どうせなら環境のいい場所で育てたいという大輔の考えもあって購入した家だった。20坪あまりのささやかな建売り。けれど、小さいながら庭もある。引っ越したら犬を飼いたいというのが、大輔のたっての願いだった。
「荷物もちゃんと片付いてないし、もう少し落ち着いてからにしましょうよ」 大輔の申し出を無意識に先延ばしにしている自分に気づいたのはいつのことだったろう。
郊外とはいえ、30歳にもならないうちに自分たちの家を持てたのは幸せなことだと思う。夫は優しいし、生活には何の不安もない。今は越して来たばかりで知り合いも少ないけれど、これから近所づきあいも増えて行くだろうし、子供ができたらできたで親同士のつながりもできるだろう。
それでもなお、瑤子の気持は晴れない。
きっと自分は幸せなんだと思う。けれどとても悲しいのだ。
夏だから。
そんな言いわけが通じるとは思えないけれど、そうとしか言いようのない焦りが瑤子の中にはあった。

それまでの夏は、いつだって、少しばかりの冒険とノスタルジーを用意して瑤子を待っていてくれた。心の中を覗き込めば、懐かしい思い出はいつも夏の匂いにつながっている。
夏の夜。
小学生の頃の夏祭り。いつも会っているはずの同級生が少し大人に見えた。 中学の林間学校では、消灯時間が過ぎてもずっと起きていて、みんなと好きな子を教えあった。
高校に入ってから始めたバイトが楽しくて、仕事が終わってからも家に帰らず、駐車場の隅で初めて原付を運転したりした。
大学のサークル合宿の時は、こっそり部屋を抜け出して、同級生の彼と口付けを交わした。
そんなふうに夏の思い出はいつだって少し危なっかしくて、けれどそのどれもが透明な時間に続いている。
少しづつ大人になるのはいつも夏で、だからこそ夏の終わりは少しばかり切なくて悲しい。

だからこそ。夏が近づいて来るのを感じて、ビデオショップの棚に並んでいた「いちばん美しい夏」というタイトルに惹かれた。そしてストーリーにうろたえた。スクリーンの中の女の子はまるで、大人になるのをためらっている自分にそっくりだった。
都内ではきっと、彼女のような女の子が街を闊歩し、夏の訪れを満喫していることだろう。彼女たちは夏が過ぎて行くのと同じ速度で少しづつ大人になって、その変化さえ気づかないまま季節を見送るに違いない。
けれど自分は、夏が来てももう変わることはない。
これからはこの閉ざされた場所で、大輔と2人でゆっくり年老いて行く。
安心は、時として退屈と同じであることを瑤子は知ってしまった。
大輔の望みを先延ばしにしていたのも、少しづつとはいえ、確実に何かが作り上げられて行くことが怖かったからなのだと思い当たる。
けれど、もうそんなことも言ってはいられない。潔く、きちんと大人にならなければならない夏は、もうそこまでやって来ているのだ。
そのことも、瑤子自身が一番よく判っているのだ。
「この習慣も、そろそろ止めなくちゃね」
瑤子は、誰に言うともなくつぶやいて立ち上がる。
そろそろ風が冷たくなって来た。
部屋に戻りかけた瑤子の手が、そっとお腹のあたりを撫でる。
大輔はまだ帰ってこない。

2004.3.20. 水無月朋子


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