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『ありがとう』

 穏やかな平日の午後、部屋の掃除をしていた眞子は、本棚の上を見上げてため息をついた。結婚して半年になる北斗は、ちょっと目を離すと使わない物を何でもダンボールに詰め、棚の上に押し上げてしまう。その箱のひとつが不安定にはみ出していて、今にも落ちて来そうなのだ。
どうせガラクタが詰まっているに違いない。眞子は台所から椅子を引っ張ってくると、その上に乗って箱を降ろそうとした。けれど148センチしかない身長と不安定な体勢に対して、その箱は予想外に重かった。バランスを崩した眞子の手から箱が落ちる。中身が床に散らばった。北斗が独身時代に着ていた服や、古い雑誌。パソコンの周辺機器やゲームセンターで取ったようなオモチャに紛れて、ビデオテープが転がり出た。何これ…と手に取ってみると、「ありがとう」というタイトルラベルが貼ってある。映画のビデオらしかった。北斗が買ったものだろうか。掃除もあらかた終わってしまったし、今日は買い物に出る予定もない。とりたててすることのなかった眞子は、箱の中身を片付けると、そのビデオをデッキに入れて再生のボタンを押した。

 映画は5年間の単身赴任を終えた父親が家に戻って来るところから始まった。すると娘が見知らぬ男たちに乱暴されている。家にいるはずの母親は不在。下の娘も「5年も離れていたくせに」と彼を相手にもしない。バラバラになった家族を立てなおすためと奮闘しているうちに父親は会社をクビになり、家族の関係はさらに悪化していく。『もしあの時、男たちが声をかけたのが自分の娘じゃなかったら、乱暴されたのが他の子だったら、こんなことにはならなかったのに…』 それがすべてのきっかけだったのだと父親は自分を責め、変わってしまった家族から孤立して行く。
けれど眞子はそのストーリーよりも過激な映像にショックを受けていた。そのタイトルからホームコメディかヒューマンドラマを想像していたのに実際はR15指定で、きわどい映像の連続だったのだ。
「なによ北斗ったら、私に隠れてこんなビデオ…」
最後まで見終わった後、タイトルのイメージとはまるでちがった内容と、そんなビデオを隠すように持っていた北斗に文句のひとつも言ってやりたい気分だった。
「そろそろ夕飯の支度をしなくっちゃ」

 気を取り直してTVを点けてから台所に立つ。ワイドショーのコーナーに映し出された顔を見て、眞子はふと手を止めた。舞台女優のスキャンダルの話題だった。
清純派でデビューした彼女が、有名な演出家との不倫のあげく破局。相手側は一切ノーコメント。イメージの失墜は致命的、子供たちの夢を壊すふしだらな存在だと、自分の方がよっぽど身持ちの悪そうなゲストコメンテーターが訳知り顔でまくし立てていた。
眞子はその女優をよく知っていた。そう、とてもよく。
彼女とは劇団が同じだった。眞子もかつては芝居の道を目指していて、背格好の良く似た彼女とは、よく同じ役を争ったものだ。2人の命運を分けた、あるミュージカルの主役の座も。
背が低いことは確かに個性だけれど、舞台女優としては役が付きにくい。けれど、そのミュージカルは対象年齢が小学生だったこともあって、主役は背の低い女優限定。主演する女優を何度も変えながら再演をくりかえしているミュージカルだったから、主役に選ばれさえすれば有名女優として注目されることは間違いなかった。

 その大事なオーディションの当日。当時住んでいたアパートを出たところで眞子は一人の老女に声をかけられた。彼女はこの近くに住んでいる息子を訪ねて田舎から出て来たのだと言った。
「たしかこのへんのはずなんだけどねぇ…」
 皺だらけの手に握った、もっと皺だらけのメモを見せながら、老婆は目をしばたたかせた。眞子は内心あせりながらも、そのメモを覗き込んでいた。
「この住所、幸町じゃないですか。ここは栄町ですから、幸町は駅の向こうの…」
 何度説明しても、その老女は心細そうに首を傾げるばかり。仕方なく眞子はタクシーを止め、メモの住所を運転手に説明し、彼女を送り出したのだった。
それが原因で乗る筈だった電車に乗り遅れ、運の悪いことに人身事故に巻き込まれた。結局眞子はそのオーディションに遅刻し、彼女が主役の座を勝ち取った。その後、彼女はスターになり、眞子は普通の主婦をしている。
もしあの時、あの老女が声をかけたのが眞子じゃなかったら。そう思った眞子は、苦笑いせずにはいられなかった。
「それじゃあまるで、さっきの映画のお父さんじゃないの」
でも。そんな些細なできごとがきっかけで生活や人生が大きく変わってしまうことがあるのではないか、とも思うのだ。もしもあの時、老女と会わず、ちゃんと電車に乗っていたら。そしてもし、オーディションに受かっていたら。今頃、自分は今どうなっていただろう。華やかな世界を知って、誰かと知り合って。自分は彼女のようにならなかったと言い切れるだろうか。
そんなことをふと考えていると、玄関でチャイムの音がした。北斗が帰って来る時間だった。玄関に走って行き、ドアを開ける。
ただいま、と言いかけた北斗を遮って眞子が北斗の手を引いた。
「ビデオ屋付き合って!」
「また高い棚に手が届かないからとか言うんじゃないだろうな?」
「だって届かないんだもん。店員さんにいちいち頼むのも悪いしさ」
「俺だったらいいのかよ」
「いいのいいの」
北斗の腕をからめ取り、無理やり引きずって家を出た。北斗もカバンを置くのもそこそこに、苦笑いで眞子の後をついて来る。
あの日、老女に声をかけられたのが、幸運だったのか不運だったのかは判らない。けれど、幸せの形はひとつじゃなくて、きっと今、自分は幸せなのだ。
夕暮れの道を北斗と連れ立って歩きながら、眞子はずっと目を伏せるようにして通り過ぎていた彼女の舞台のビデオを今日こそはちゃんと見てみようと思った。

2003.8.12. 水無月朋子



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