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ミスティック・リバー

郵便受けに届いた一通の手紙を見て、淑美の表情が凍り付いた。一流ホテルのすかしの入った封筒。差出人は森宮朝子とあった。
「結婚式の招待状だろそれ。そんなのに行く金なんかあるのかよ」
淑美の夫は苦い顔で吐き捨てた。結婚して9年目の夫は失業中。ケンカばかりが続いている夜のことだった。
「行かないわよ。友達でもなんでもないんだから」
もう何年も前に会わなくなったはずの朝子がなぜこんなものを送りつけて来たのか。淑美は金のふちどりが入った封筒を苦々しい思いで見つめていた。

朝子と最後に会ったのは10年近くも前のこと。時は90年代のバブル絶頂期。淑美は週末ごとにブランド物の服やバッグで身を固め、芝浦や六本木に繰り出していた。その頃、一緒に出かけていたのが朝子だった。黒服にかしずかれてVIPルームで朝まで過ごす。気が向けばそこで知り合った男と泊まることもあったし、メルセデスやBMWをタクシー代わりにすることも多かった。気が向いた時に一本電話をかけるだけで、札束で金を膨らませた男たちは即座に迎えに来てくれたし、淑美が甘えた顔を見せればいくらでも財布を開いたのだ。『常連の淑美ちゃん』はみんなにもてはやされ、お金の価値になど気づく暇もなく時間は過ぎて行った。

「淑美ちゃん、芝浦とか行ってるんだって?私もそういうところに行ってみたいんだけど」
短大を卒業してから会っていなかった朝子にせがまれて一緒に遊びに出たのは、淑美のほんの気まぐれだった。地味な事務員をしている朝子に今の自分を見せつけてやるのも楽しいかも。淑美は気安くそれに応じた。淑美の思惑通り、周囲の視線は野暮ったい朝子の上を素通りして淑美の上で留まる。無言のうちに会話から外され、朝子は淑美の隣でなす術もなく立ち尽くす。それに気づいていながらさりげなく無視した。
――身の程を知れってことよ。いい加減あきらめれば?
それでも朝子は週末になると電話をかけてきた。
「今日はどこへ行くの?先週行ったお店、また行ってみたいんだけど」
性懲りもなく自分の真似をしようとする朝子に苛立ちが募る。だからこそ淑美は朝子との外出を重ね、自分が気に入った男が二人連れで声をかけてきた時には「どうでもいいほう」を朝子に押し付けた。
「私、この人に送ってもらうから。朝子も適当にやって」
朝子を置き去りにして店を出た。だが、男の車の助手席に座った瞬間、そのことを忘れていた。

朝子が妊娠したらしいと電話をかけてきたのは、それからしばらく経った頃だった。大体の予想はついた。だが淑美は心配するそぶりは見せたけれど、ただそれだけだ。病院に行くと言われた時も、そう、と答えただけで。朝子を気遣う気持ちも中絶費用を助けるお金も、淑美は最初から持ち合わせていなかった。
それ以来、いつの間にか朝子とは会わなくなった。淑美の周りにはたくさんの人がいたし、朝子一人がいなくなったところで、週末の夜は何も変わらなかったのだから。

狂ったような時間が過ぎ去り、ふと周囲を見回せば、華やかな夜の金粉は跡形もなく消え去っていた。残ったものは何もない。長い夢に酔っていただけの時間だったのだ。すすけたような灰色の生活。淑美は26になっていた。
短大を出ただけで、ろくに仕事もしてこなかった26の女に就職先などあるわけもなく、昔のつてをたどって電話をしてみたところで端から切られるのがおちだった。だが一度贅沢の味を知ってしまった以上、安い給料でコツコツ仕事をするのもバカらしくて、手近にいた男と結婚した。夫となった男も半年前に失業。バブルは遠い夢だったのだ。

結婚式になど出る気はまるでなかったけれど、朝子には電話をしてそれとなく様子を聞いた。朝子も淑美も今は35歳。朝子はあの妊娠をきっかけに元の生活の戻り、ずっと仕事を続けていたのだという。
「何度も転職したけど、今の会社はけっこう気に入ってるの。もちろん仕事は続けるわ。結婚するのは取引先の会社のドクターなんだけど、私の自由にしていいって言ってくれてるから」
朝子が名を挙げたのは、淑美でさえも知っている外資系の製薬会社だった。

さりげなく言った朝子の言葉の裏にいくつもの棘が隠されていたことを淑美ははっきりと感じていた。朝子は本当はこう言いたかったのだろう。
「今の自分は外資系の一流企業に勤めるキャリアで、結婚する相手もこれからの生活も、あなたと私は全然違うのよ」と。

時間の流れはゆるやかで、いつでも人に公平だ。たゆたうように流れる時間という川の向こうから、朝子の高笑いが聞こえた気がした。

2005.3.31. 水無月朋子



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