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『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』


17時ちょうどに羽田を飛び立ったANA073便は、茜色と灰色と藍色のグラデーションの中を音もなく北上している。その機内で、みちるはミネラルウォーターのペットボトルをもう一度握り締めた。
たった今「お飲み物は?」とアテンダントに訊かれ、白ワインと答えて失笑を買った。東京から札幌へ向かう国内線の、たった一時間半のフライトでアルコール飲料を出さないことくらいみちるだって知っている。けれどアルコールの力でも借りなければ、弱くなりそうな気持ちを奮い立たせそうもなくて、つい口から出た言葉だった。自分に向けられた苦笑いもまた須藤のせいだと思うと、それすらも忌々しい。
無性に喉が渇いて、立て続けに水を飲んだ。それが乾燥した冬の空気のためなのか、自分が緊張しているせいなのかも、もう判らなくなっていた。

「暮れの休みはそっちに帰れそうにないんだ」
 みちるが札幌へ行こうと決めたのは、電話の向こうから聞こえてきた須藤の一言のせいだった。
「2年たったら東京に戻れる。それまでに妻との間もきちんとするから、もう少し待って欲しい」
 そう言い残して札幌の営業所へ転勤になった須藤とは、1年と少しの付き合いだ。既婚者との恋愛は、ただでさえクリスマスや正月が辛い。それが判っていてもなお関係を続けてしまったのは、須藤がことあるごとに妻との離婚をほのめかして来たせいでもあった。
「妻は仕事にしか情熱を持っておらず、およそ家庭を持つタイプではない。だからこそみちると付き合ったのだし、将来のことも真剣に考えている」
 その須藤の言葉は事実のようでもあったし、まるっきり嘘のようにも思えた。 結婚までの交際期間が3年というのが長いのか短いのか、みちるには判らない。須藤と付き合っている間にみちるは27になっていた。

その須藤が、年越しは遠く離れた地で迎えると言い出した。東京の自宅には帰らないという須藤に、みちるは「だったら一緒に過ごして」と詰め寄った。だが須藤ははっきりした返事を返さず、クリスマスを誰と、どこで、どう過ごすのかをうやむやにしたまま電話を切ったのだった。
その時、みちるは確信したのだ。札幌にいる須藤に付き合っている女性がいるらしいということを。
「須藤さんもやるなぁ」
「相手は現地の派遣社員なんだって?いくらなんでも羽根を伸ばし過ぎなんじゃないの」
 みちるとの関係を知らない同僚たちは、面白半分で須藤を噂した。その噂はがみちるの耳に入ってこないはずがない。
みちるは居ても立ってもいられず、クリスマス前の週末に飛行機のチケットを取った。みちるが札幌に向かっていることを須藤は知らない。不意打ちのように須藤を訪ねて真相を問いただす。結果次第では関係を清算しようと思った。それがみちるの決心だった。

「よかったらこれ、召し上がる?」
 隣に座っていた女性が水の入ったボトルを差し出した。みちるのペットボトルはとっくに空になっていた。
「いえ、大丈夫です」
「そう?まだ手をつけてないから、よかったらどうぞ。ここに入れておくわね」
 前方座席のポケットにミネラルウォーターのボトルを差し入れながら彼女が言い添えた。みちるより少し年上だろうか。スタイリッシュで肩の凝らない話し方をするその人は「吉岡さつき」と名乗った。
「札幌へはご旅行で?それともお仕事かしら」
「…人に、会いに行くんです」
 満ちるの横顔にふと悲壮感が漂う。その表情を読んだのか、さつきは遠慮がちに言葉を濁した。
「彼?それとも…何か事情があるみたいだけど」
 旅の空で出会った見ず知らずの女性。二度と会うこともなければ、余計な噂を流される心配もない。札幌に着いて右と左に別れたら、再び他人に戻るのだ。みちるはふと、自分と関わりのないこの女性に、何もかも話してしまいたいという衝動に駆られた。
「相手は…結婚している人なんです」
 みちるの口から、それまで抑えていた感情がほとばしり出た。妻帯者と関係を持ってしまったこと。社内でも隠し通さなければならなかったこと。その相手が単身赴任となり、さらに現地に付き合っている女性がいるらしいこと。相手はみちるが訊ねてくることを知らず、現地での予定も立っていないこと…。
みちるがすべて話し尽くした時、さつきは眉根を寄せてぽつりとつぶやいた。
「ちょっと、ひどいわね。その須藤って人」
 自分はこの相手に哀れまれているのだろうか。あるいは愚かに映るのか。みちるの気持ちが再び沈みかけた時、シートベルト着用のアナウンスが流れた。機体が着陸態勢に入ったらしい。
「よかったらホテルを訪ねてちょうだい。私もどうせ一人だし、一緒に食事でもしましょうよ」
 みちるを気遣うように明るい声で言ったさつきは、飛行機から降りる間際、自分の名刺を差し出した。肩書きは環境デザイナーとあり、携帯の番号も記載されていた。
「あの…もし一人になっちゃったら、電話させてもらうかも知れません」
 名刺を受け取ったみちるは、さつきにわずかばかりの憧れと親しみを感じ始めていた。

その夜、みちるはさつきが宿泊しているホテルのロビーにいた。須藤は、突然やって来たみちるに不機嫌であることを隠さず、仕事が忙しいことを理由にして会おうとしなかったのだ。
「すみません。こっちには知り合いもいないし、一人で食事するのも味気なくて」
 ロビーに降りて来たさつきに頭を下げると、さつきは朗らかに首を振った。
「いいのよ。でも少しだけ待ってもらえない?一人、知り合いを呼んであるの」
 一人旅だと言っていたはずなのに。みちるの胸をざらりとした感情が撫でて過ぎた。
その時、みちるの見知った顔がロビーに現れた。須藤だった。みちるに気づいた須藤の顔に狼狽が走る。
「おまえ…なんで…」
 みちるもまた、ハッとしてさつきを振り返った。さつきは皮肉とも取れる笑みを浮かべたまま、言った。
「騙すようなことしてごめんなさい。吉岡は仕事で使ってる旧姓なの。戸籍上は須藤さつき。今こっちに向かって歩いてくるのは…私の夫よ」
 そしてさつきは須藤を見据え、冷ややかな声で言ったのだ。
「彼女から話は全部聞いたわ。あなた、こっちにも女性がいるそうね」

ナイトメア・ビフォア・クリスマス。
クリスマス前の悪夢を見たのは、果たして誰だったのだろう。


2004.11.13. 水無月朋子

 


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