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『ニュー・シネマ・パラダイス』


 かつては基地の街として栄え、赤線と呼ばれた区域のある街でヒロは生まれた。
ヒロがまだ5歳の時にベトナム戦争が始まり、街のはずれにあった基地が米軍の出撃基地になったことで、すたれかけていた繁華街は活気を取り戻した。軍のシープが行き交い、あちこちに迷彩服を着た米兵が歩き回っていた。そしてそんな軍人を相手にする「たちんぼ」と呼ばれる夜の女がそこかしこに立っていた。
そんな光景はヒロにとって当たり前のことだった。
 時期を同じくして、その界隈で初めての映画館ができた。その通りはシネマ通りと呼ばれ、娯楽の少なかった時代に、映画館の前にはいつも行列ができていたように記憶している。 ヒロは、母親からもらったお小遣いで当時、その界隈で売られ始めた「飛行もなか」や、いろいろな駄菓子を食べ、シネマ通りを遊び場にして育った。

 夕方、薄暗くなりかけるころになると、街に姿を現し始めた女性たちがヒロに声をかけてくれる。
「ぼうや、早くお帰り。お母さんが心配するよ」
そんなふうに言いながら、彼女たちはたまに小さなチョコレートをくれたりした。
駄菓子屋の、サッカリンの甘さしか知らなかったヒロにとって、それは頭痛がするほど甘くておいしかった。 そんな女性の中には、年に何回かある授業参観で顔を見たことのある、同級生の母親も何人かいた。
ヒロは彼女たちが何のためにそこにいるのかは判らなかった。けれど、「これからは大人の時間」であることを感じて、暗くなりかけた道を家に向かって歩き出すのがいつものことだった。

 それから10年もの間その戦争は続き、街の様子は変わることがなかった。
その間にヒロは15になり、彼女たちのしていることが何であるのかを察しはじめていた。
そんなある日の夜、学校が休みだったために私服で遊びに出ていたヒロが家に帰る途中、暗がりに立っていた女性が声をかけてきた。
「ねえお兄さん、ちょっと…」
肘を取られて振り向くと、街灯に照らし出されたその人はヒロの良く知っている相手だった。
その時、彼女は気まずそうに
「あら、ごめんなさい」
とつぶやいてヒロから離れて行った。
家に帰る道すがら、ヒロは自分が変わってしまったのだろうかと、わけもなく悲しかった。

 その日から、ヒロは家に帰る道を変えた。
女性たちのいない道を選んで、わざと遠回りして帰るようになった。
「早く家にお帰り」と言ってくれた人の顔。
「大きくなったね」と頭を撫でてくれた人の顔。
そして、同級生の母親の顔。
何人もの女性の顔がちらついて、やるせなく、彼女たちと顔を合わせるのがつらかった。
それまでのように軽口を叩けない自分が情けなくて、もどかしくて、わけもなく苛立った。

 それから10年以上の間、ヒロはその界隈を避けて通っていた。ニューシネマパラダイスという映画を観たのはその頃のことだ。
トトという少年が生まれ育った街に帰って来た時、誰も彼のことを「トト」とは呼ばなくなっていた。そのことが切なくて、あの日の出来事を思い出させた。
今はもう、誰も自分のことをヒロとは呼ばない。そして早くお帰り、とも言ってはくれない。
そんな時間の流れの中で、ヒロは彼女たちのしていたことが、生活のためだったということを理解する歳になっていた。

 そしてヒロは再びシネマ通りと呼ばれるその地域に足を踏み入れるようになった。
その通りには昔のような華やかさはなく、小さな飲み屋が店を連ねるだけになっていた。
けれども彼女たちはまだそこにいた。
昔は美しかった彼女たちもそれぞれに歳を取り、けれども昔と同じように薄暗い路地に立っていた。
「お姉さん、今日は寒いね」
ふと、昔のように声をかけてみた。
「何だいあんた、このへんの子かい?」
「家がね、この先なんだよ」
「そうかい。気をつけて帰んな」
「お姉さんも風邪ひかないようにね」
ヒロは皺の目立ち始めた笑顔に笑って答えながら、
『こんなふうに生きるしかなかった人もいるんだ』
と、家に続く道を急いだ。

2003.2.6. 水無月朋子

 



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