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『ノッティングヒルの恋人』


 隣を歩いていた太一がふいにぴょんと飛び上がった。太一の指先は、張り出していた街路樹の枝先をかすめて大きく空を切る。だめか、とつぶやいて、太一はふて腐れたように口を尖らせた。
「何やってるの?」
 早苗は、溶けかけたアイスを片手に怪訝な顔を向ける。
「なんか、さっきの映画であったじゃん。ちょっとは跳べるようになったかなって思ったのに届かねーし。だからやっぱ、ゴハンの上に焼きそば乗っけて食ってるやつがいたら俺ね」
 その日、2人が見た映画は『ノッティングヒルの恋人』だった。恋愛映画を観るくらいなら、家でNBAの試合を見たいと言った太一にせがんで一緒に行った。
その中で、ヒュー・グラント演じる本屋の主人が「もしぼくが死んだら、生まれ変わりをこうやって見つけて」と、木の枝を触るシーンがあった。太一はその真似をしようと思ったらしいのだけれど、身長の足りなさが災いして、焼きそばに話を変えたらしい。
ロマンティックなラブストーリーだったのに、太一にかかるとまるで台無しになる。その言葉どおり、太一はロマンティックなどとは程遠い、やんちゃでわんぱくで、好奇心が服を着て立っているような人だった。
とっくに就職活動を始めていなければならない時期なのに、毎日バスケに明け暮れて、早苗が人の話をちゃんと聞いているのかと注意しても「聞いてる聞いてる」と大あくびをするほどに。
「チビなんだからさあ、もうバスケなんてやめなよ」
「次に生まれて来る時は、もう少し背が欲しいよなぁ。特に足を重点的に。早苗もそう思わねえ?」
 つい小言が口を突いて出た早苗に向かって、太一は「ここ、付いてるよ」と自分の口元を指差し、大きく舌を出して早苗の頬を舐めた。
――キスくらい、もう少しロマンチックにできないもんかしら。
そして早苗は、太一に向かってわざと大きくため息をついて見せた。

その夏、太一は「学生最後の夏だから、自転車で富士山まで行って来る」とかなんとか言って、手を振って出て行った。
そしてそれが、早苗が太一を見た最後になった。
後から聞いた話では、東京へ帰って来る途中に、峠道を飛ばして来た車にはねられたのだと言う。
車なら都内のほうがよっぽどたくさん走っている。自転車に乗っている人だってたくさんいる。なのにどうして太一が。それも、どうしてそんな所で。そもそも自転車でそんな所へ行くなんて言い出さなければ。せめてもう少し目立つ格好をしていれば。
悔やんでも悔やみ切れず、早苗は、夏が終わり、秋が過ぎてもうつうつとして暮らしていた。 その間に2人で見た映画はビデオになり、テレビにCMが流れ、ビデオショップの棚に並んだ。
いつかの約束を思い出した早苗は、ご飯の上に焼きそばを乗せている人を真剣に探しさえした。
そんなことをしている自分が滑稽で悲しかった。

冬が過ぎ、また春が来る頃になって、親戚の家で仔犬が生まれたという話が舞い込んで来た。
太一を失くしてふさぎ込んでいる早苗を見かねた両親の勧めもあって、早苗は母親と一緒に仔犬を見に出かけた。
そこでは、目が開いたばかりのコーギーの仔犬が4匹、母犬の隣に丸くなって眠っていた。 どの子にする?と、飼い主のおばさんに尋ねられても、早苗は一匹を決めかねていた。
その時、4匹のうちの一匹がもぞもぞと動き出し、庭に続く窓辺に置いてあった鉢植えに向かっておぼつかない足取りで歩き始めた。その仔犬は出窓から垂れ下がったポトスの葉が気になるのか、しきりと前脚を伸ばしている。
「ほらほら、だめじゃない。鉢がひっくり返ったら危ないよ」
 慌てて抱き上げると、その仔犬は大きなあくびをひとつしてから、早苗の頬をぺろりと舐めた。
――え…? 早苗の心に何かがひっかかる。この感じ、何だっけ…。
次の瞬間、早苗の胸に込み上げる想いがあった。
顔立ちは似ても似つかないけれど、自分にだけは判る。だから…。
「この子にします。この子を下さい」
 ほとんど上の空になりながら夢中で言うと、早苗は改めて仔犬の顔をまじまじと見つめた。
「少しはかっこよくなったけど、足の長さはやっぱりおんなじだったね」
 泣き笑いになった早苗を、太一によく似た丸い瞳がじっと見つめていた。


2004.5.31. 水無月朋子

illustration by 伊野 晃平


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